おとなになるぞ

頑張らず頑張りたい

将来の夢が無いなら勉強しろと言う人へ

「将来の夢ややりたいことが無いなら、勉強して選択肢を増やせ」
というよく聞くあれ。私は嫌いだ。

逆にやりたい事や夢や切羽詰まった目標が出来たから勉強に取り組めるようになることはあるだろうし、私もそのくちで、死ぬかもしれないから生き延びるために勉強しなくてはなら無くなったから、大学生になることを選んだ。

だけど、今自殺しないだけで精一杯な人や、過労死ラインギリギリで働いても生活保護受給額より少ない給料でギリギリ生活してる人、様々な暴力や不条理に長く耐えてきた人、勉強への取り組み方や姿勢を教わる事が出来なかった人、様々な事情がある人たちは夢や希望ややりたい事を持つ事が出来ないことが多い。
数年前に夢や希望は砂糖菓子だとブログに書いたこともあるが、本当に当時は
「それどころじゃない、奪ったくせに私にこれ以上何かを頑張らせようとするな」
と憤る気持ちがすごく強かった。

勉強はいつでも誰にでもどこででも門戸が開かれている訳じゃない。そんなにアクセシビリティの良い代物ではない。
勉強しなさいと言える特権を持つ人は、そのアクセシビリティの悪さに気付けない。

例えばピアノを習っている人は、ただ技術を教わるだけではなく、この世にある音楽や、そのジャンル、優劣、練習に取り組む姿勢や、じっと座っていることなどを含めて学んでいる。
サッカーを習っている人は、サッカーのルールや、協調性、バランスのとり方、身体の動かし方、誰が上手で自分は何が得意なのか、筋力や体力の増強などを含めて習得している。

勉強だってそうで、解き方や理解云々の前にまず椅子にじっと座って先生の話を聞く事の意味を見出すことや、見いだせない子供は分からないなりに座って聞くことを訓練される。
それは本人の置かれた環境に大きく左右される。
聞くこと、理解すること、理解を反映させることなどは訓練されたものだ。誰にでも出来る訳ではなく、訓練してくれる人が近くに居ただけの特権だ。

夢や希望ややりたいことが無い人に、いたずらに勉強しろと言っても響くのはその勉強が出来る環境を持つ特権階級の人だけだ。

「3日食べてないのに勉強?」
「寝る時間まで削ってフラフラになりながら働いてるのに勉強?」
「帰る家が暴力の嵐なのに勉強?」
「大家族で家族の面倒を自分が見ないといけないのに勉強?」
「やりたい事や夢や希望は本当はあったものを全部奪われたのに、それを持ってないって言うの?勉強しないといけないのは自分なの?」
「今自殺したいと思ってるのに勉強?」

などという問いは、特権階級にいる人達には見えないか、ほとんど無いのと同じだと扱われる。
「あなたは特別不幸だから話は別だけど、基本的にはやりたいことが無いなら勉強すべきだ」
と、周縁化される。
周縁化される人達は「基本的に」「普通の」「ベーシックな」場所に居場所を用意されない。

将来の夢や希望ややりたいことが無い人の話を聞く時は慎重になるべきだ。
本来持っているべきものを奪われていないか、ケアされる必要があるのではないか、言語化出来ていない(もしくは隠していたり話していない)だけで無力感や絶望感を抱えているのでは無いか、自分は何を持っていて何が見えていないのか、慎重になるべきだ。分かってる振りはもうやめよう。

見えていない事を自覚せず不用意に努力を求める事や、努力でどうにもならない事を求める事は、トリガーになりうる。