夏休みが終わってしまった。夏休みが楽園だった訳では決してないのに授業が始まることはただただ憂鬱である。
これは私のマインドフルネスのチャージが不足しているのも起因しているだろうし、学校というものへのトラウマも起因しているだろう。気温や気圧が不安定で体調もずっと良くない。
不安とどう付き合うか問題はきっとこの先もずっとあるんだろうな。
長く仲良くしてくれている友だちとプレゼント交換の約束をしたから、それまでは生きるぞ。
いくつも精神疾患を抱えて何回も精神科に入院して、健常者と呼ばれる人達ほど元気に動くことが出来ないことにもう諦めもついているけれど、生まれつき持っている障害以外の発病や発病原因が無ければ私は大学くらいは卒業出来たのだろうかと詮無いことをぶつぶつ考えてしまう。こういう他責的なことに執着したくないんだけどな。
私は元気だった頃どんなだっただろうか、失ったものをよく思い出せないのに今出来ないことをうじうじ見つめ、切り替えた振りをして物分りのいい振りをしてしまう。
良い先輩でなければ、良い患者でなければ、良い回復者でなければ、良い学生でなければ、私はこの世に居ることを許されない存在価値の無い人間であるという強迫観念と、うっすらとした希死念慮はもう長いことずっとある。こんな優生思想に根差した希死念慮なんて私を差別する私がひどいという話だけれど、私は私を差別する私を1番大切に思っているのだ、時に他の誰よりも。ということをうっすらうっすらと残念に思っている。このプレッシャーのお陰で友だちが出来たり良い成績が取れたり学びが深まったり広まったりしているという事実もある。
私は私が嫌いだ、何にも出来ない私が恥ずかしくて情けなくてこんなはずじゃなかったと人のせいにしている自分が浅ましくて大嫌いだ。
後期の学びは刑事司法やそれに抵触する障害者や高齢者をメインテーマに扱うことになりそうだ。
自分や自分の家族のことや自分の周囲の人々を想起させることも多いだろうし、どういう脳みその使い方をするかまだ分からないけれど、どうせ私のことだから自分にばかり引き付けて考えてぐったりもするだろう。
希望があるとすれば、きちんと学べば怖くないことかもしれないし、知識として持っておいた方が良いものだと理解している点だ。
病棟で知り合った、人を刺しちゃった私の友だち。精神鑑定を受けている友だちをリアルタイムで見ていたことはアドバンテージにもなるだろう。
こんな私の学問の種になってくれている様々な人々との関係は大事にしたいと思いつつ、人間から遠ざかってアップルパイでも焼いて生きていたい気持ちにもなるのだ。
恥ずかしい私を家の中に閉じ込めておきたい気持ちと、学びや人との関係の中に押し出したい気持ちでふらふらしている。
誰にも私を見つけることは出来ない。りんごを煮たい。