おとなになるぞ

頑張らず頑張りたい

携帯が震わない。
私が人の携帯を震わせる事ばかりな気がする。
サイレントに友だちは傷付き続ける。
サイレントな友だちに安全なところまで逃げて欲しいし、そのサポートもしたくなる。
私はやかましく傷付き続ける。

私は私を愛しているし、各々の人生を生きた友人たちで同じ老人ホームに入ってはしゃぎ倒すハッピーオシャカワババアにもなりたい。
おめでたいくらいの夢がある。

にも関わらず、今ここの私を大事にすることをあまりにも疎かにし過ぎるし、し過ぎてきた。
何度も同じ景色を見ている。螺旋状の回復なんだと分かっていても、また同じ景色だと、今までの頑張りがリセットされてしまった様に絶望する。

大丈夫な気がして、大丈夫だと言ってしまって、その言葉に嘘は無いけど私は朝から何も食べてない事を忘れてしまっている。
ご飯を作る気になれない、作ったとしても食べる気になれない。UVERしたいとも思えない。
ただただ疲れてしまっている。

ただ傷付いたことを理解するまでに途方もない時間がかかり、傷付いたことを怒りで、心配で、自制心で処理しようとする。「悲しい」がすっぽり抜けている。悲しんだら死んじゃう状況に慣れ過ぎた。

私の傷がどれほどのものか、どれほど傷付きやすくなっているのか私にはもう分からない。

明かりがついている事にも疲れきって電気を消してしまうし、音楽が無いと気が狂いそうだったのになんの音も聞きたくない。

自分を大切にするってどうすればいいのか全然分からない。

自分のことは大切なのに、大切にしたいのに、どうしてあげればいいのか分からない。

傷付いた人のエピソードを貪って傷付き続けてご飯が食べられない。

誰かの言葉が欲しいような、何の刺激も与えられたくないような、そんな気がする。

大切にされたい。されている事を分かりたい。なんで分からないのか分からない。

寂しくは無い、痛くもない。
ただただ疲れている。

最近どうよ

最近なんか、色々ありすぎて頭がやかましい。
YouTubeで「癒し・リラックス」のためのプレイリストを作った。引き続き増やしていきたい。

本当に最近やっと自覚というか、認められるようになってきたけど、私はサバイバーだ。
これまでもあちこちで言うようにしていて、自分でそれを心から認められるようになればいいな、と思っていたけど
「私をサバイバーだとすると、加害者と呼ばなければならない人達が出てきてしまう。それは状況的に考えて相手にひどい」
みたいなところがあったし、
「もっとひどい(分かりやすい)被害を受けている人がいるわけだしな…この程度でな…」
みたいなところがあった。

この思考回路自体もだいぶ典型的な感じがするけど、それよりも何よりも、私の人との距離感とかコミュニケーションの仕方が
「いや、それはサバイバーのそれ」
って感じで、誰に何をされたかは関係無く私はサバイバルして生きてきていたのだからサバイバーなのだ。
と、思えるようになってきた。

加害・被害の度合いよりも私が受けたダメージに照準を合わせた方が良さそうだ、と思った。あと加害行為が駄目なので、加害者の人格と行為には線を引かないといけないな、とも思っている。

今まで、というか未だに若干あるけど
「大人信用ならねぇ」
「福祉とか支援とか教育とかキメェ」
「訳分からん奴に相談したら説教されるか支配される」
みたいなところが言語化出来ない深い所で根付いていて、それの警戒レベルがかなり高かったので、初対面の人や、初対面に近い人(特に大人)に対して

*黙る・そこに行かなくなる。

*距離感ガン詰めして初対面で話す内容じゃないトラウマティックな話をする。
(これは私にとって試し行為というか、挑発・攻撃に分類されている。親しくなりたくて、というものではない。結果的にそれで親しくなった人も居るだけ)

*「お前に見せているのは私の作り出した虚像であり、そいつに何か攻撃しても私には傷1つ付かないし、的外れな事言ってんな〜って小馬鹿にする」みたいな、外面を貼り付ける。

を、よくやっていたなと。思う。
外面を貼り付けることは多分多くの人が規模は違えど大なり小なりやってるんじゃないかしら。見せたくない一面を伏せる、とか、自分を良く見せようとする、みたいな。
これのでっかい版みたいな事をしてた。

完全にキャラを作って、私ですら私の本心に気付けないくらい演じてみせる、みたいな。
お前は果たして見抜けるのか、というような挑発行為でもあったし、自己防衛の為のものでもあった。

こういう試し行為や挑発・攻撃に動じない人を選んでいたし、そのテスト的なものは不定期に行われて選別されていったし、残った人を信奉するみたいな依存も発生していた。

というような事が言語化出来てきて、
「私…サバイバーじゃん…」
となっている。
何がトラウマになっているのかはよく分からないし、これだよ!みたいなのが見つかっても多分
「は?そんなことで?」
ってなると思う。生存を揺るがされる事にあまりにも鈍感過ぎたし、過敏だった。
だった、というか今もそうだな。

試し行為や挑発・攻撃はだーーーいぶ柔らかくなったけれど依然としてあるはある。
そもそも私は人見知りなので、慣れない場所に行くと
「居るのはつらいよ」
になるし、優しい人が話しかけてくれてもキャラで返事するし、何かの拍子にトラウマティックな話を突然軽々とふっかけてしまうこともある。

警戒心が高まるとだいぶやっちゃうし、自己をコントロール下に置けなくなる。

「分かってよ!!!」
みたいな所でもあるだろうし
「分からなくて良いから近寄んじゃねぇよ!!!」
みたいな所もあるだろうなと思う。

0/100 思考はだいぶ緩やかになってきたけど、それでも10/90くらいな感じする。
ただそれが過激に表出される事が減っただけ。

「全幅の信頼を置ける人」というのが存在しなくなったのが、10の部分なのかなと。
その人の全てを知り尽くしている訳じゃないのに全幅は預けられない、ということが出来るようになってきた。
自分の責任を、大人初心者として、引き受けられる分は引き受ける。投げ出さない。自分で自分を運営する。になってきた。

その上でだいぶ頼っちゃってる人、というのは存在する。そこが90の部分だと思う。
10疑ってる(というと聞こえ悪いな…知らない部分もあるから丸投げは出来ない、かな)。

依然として全然シャーーーッ!!!!っとなるのだけど、他者への諦めとか、自分の中で起こっている事を解析にかけるのが上達してきた。

私の身に何が起こっているのか!大混乱!は減ってきた。まだまだ全然あるけれど。なんなら今も大混乱中だけど。

カウンセラーさんも新しい方に引き継がれたし、
「シャーー!!!!」
を、上手に出せるようになっていきたいな。警戒してるぞ!みたいに出すんじゃなくて、
「私を傷付けないと信じたいのだが、大丈夫そうかしら…」
みたいな出し方にしたい。ゆくゆくはもうちょいマイルドに出せるようになりたい。

葬送のフリーレンにハマってる

タイトル通りです。ハマってる。アニメから見始めて漫画も全巻揃えた。
まず、めちゃくちゃ良いグリーフケアを行っているのでは…という所で
「ほう…?」
ってなった。私は細く長くオタクをやって来た割にRPGには疎くて、ファイナルファンタジードラクエもやったことない。
主人公フリーレンの属性である「エルフ」という単語も概念もふわっとしか知らなかったし、正直エロ漫画に属性というか下手すりゃ見た目だけ転用されてるイメージしか無かった。
何ならそれを全く関係ないネットページを開いてるのに広告でしつこく出してこられる…みたいなイメージしか無かった。

エルフはこの作品の中では人類にカウントされるが、人間では無い種族で、主人公フリーレンは1000年以上生きていて少女のような容姿をしている。作中のエルフ同士の会話で
「私たちの時間は永遠に近い」
というような趣旨のやり取りもある。

そして、フリーレンは勇者一行のパーティに加わり魔王を打ち倒し凱旋帰還する所から物語が始まる。
今まで魔王を討伐するまでを描いた作品は沢山あると思うのだけど、その後を、特に勇者の死後を描いた作品というのはとても珍しいのでは無いかと思う。私は初めて見た。

フリーレンは勇者ヒンメルが亡くなった時に、自分がいかに人間や仲間、ヒンメルのことを知らないか、知ろうとしなかったかということを悔いて涙する。
10年という恐らくエルフにとってとても短い期間(フリーレンにとっては自身の人生の1/100程度の期間)に大事な存在になっていたであろうヒンメル達のとった行動や発言は覚えているけれど、どんな人物だということ(例えば好きな食べ物とか趣味とかも含めて)までは分からないでいるんだろうな……。
それでも自分にとって大切な存在になっていて、喪う悲しみというのもあるのだけれど、その感情がどういうものか把握しきれてない混乱もあるのだろうな…。という描写の後に、
「人間のことを知ろう」
と思うに至り旅に出る。勇者パーティで一緒に戦った仲間の養子や弟子が新パーティとして仲間になり、新しい旅に出る。

細かいことは間違ってるかも知れないし私の思い込みの部分も多くあると思うけど、私の解釈としてはこんな感じの冒頭。

エルフという長寿種であるフリーレンにとって、人間との死別は避けて通ることが出来ない。
そしてエルフは恋愛や生殖といった感覚、感情がほぼ無い為総数が少なく、緩やかに絶滅に近付いている。フリーレン自身何百年も同族と会っていないと言っている。

この為、フリーレンの抱える
「親しくなった人間、大切な人間(人類にエルフもドワーフもカウントされる為、敢えて人間と書きます)との死別による悲しみや痛みは、同じ痛みを抱えるエルフと共有されていない。似た様な死別を経験した人間ともそもそもの総数や年数が違い過ぎる為、結局エルフへのグリーフケアのリソースが無くセルフケアに頼らざるを得ない」
という状況になってしまう。

勇者ヒンメル以前にも、魔法の師であるフランメとの死別も描かれてあるし、他にも数え切れない人間たちとの死別を経験して来ているのだと想像される。
フリーレン自身もまた、自身の暮らしたエルフの村を魔族に襲われ1人生き残った孤児でもある。

にも関わらず、勇者ヒンメルとの死別で涙を流し、人を知ろうとしなかった後悔を口にする。
それ程までに(フリーレンにとっては自分の人生の1/100という極めて短い期間で)大切な存在になっていたことに無自覚でもあったのだろうし、長寿種として人間との死別に毎回毎回傷付いていたら生きていけないと摩耗させていたところもあるのだと思う。

そのため、勇者ヒンメルとの死別によるグリーフのケアのためのワークが、フリーレンのセルフケアとして必要になり、行われる様になった話の様に感じている。

閑話休題
繰り返すが私はRPGに本当に疎いので、他作品でエルフがどういう扱いなのかは分からないのだけれど、この作品では広く人類ということで括られている。
私はそこに平和を感じている。

もちろん魔物や魔族がガンガン殺しにかかってくるし、戦闘の日々もあるのだけれど、人間がエルフやドワーフといった長寿種を「自分たち側」として扱っていることに平和を感じる。
それはもちろん、対話不可で襲ってくる魔物や魔族といった脅威があるからというところもあるのだろうしフィクションだからというところもあると思う。

けれどももしも、今エルフが実在したら人類としてカウントされないだろうし、下手したら迫害されるだろうなと思う。歴史の生き証人を
「耄碌している」
として侮ることが出来ないのは人間の為政者には都合が悪いだろうと思うし。
何ならあの世界線でも魔物や魔族といった「自分たちでは無い側」の脅威が排除されれば、エルフやドワーフといった長寿種は迫害の対象になり得るのでは無いかと思う。
それくらいには為政者に好き放題されてる感が私に染み付いている。

【話を戻そう、よいしょ〜っ!】
人間である私にもグリーフケアを必要とする事は当然あるし、悲嘆によって起こる反応は私にも起こる。
私は恵まれたことにその事に対して知識が少しだけあった為に対処出来た。対処出来なかった事、し切れなかった事に対しても
「こんだけ辛いんだ、そりゃあこうもなるだろう」
という受け入れが出来た。そんなん全然受け入れられないぞ!となっている事実を冷静に受け入れられた。

エルフであり、孤児でもあり、故郷も喪ってひとりぼっちだったフリーレン(この時何歳だったんだろうね)に、フランメという魔法の師匠が出来る。
フランメは晩年、フリーレンに戦いの為の、復讐の為の魔法しか教えてこなかったと零す。そこに後悔は無いけれども、自分の一番好きな魔法は
「花畑を出す魔法」
だと告げ、自身の墓の周りは花畑にして欲しいとその魔法を教え亡くなる。

この当時のフリーレンにとって、戦いの魔法を身に付けていくことは一種のグリーフケアのワークになっていたのかも知れない。自分の家族や故郷を奪った魔族を打ち倒すというところでケアされる感情もあったのかも知れない。

だけれども人間である師匠フランメを亡くして、どれほどの期間をどう過ごしたかはあまり詳しい描写が無いけれど、また人間であるヒンメルたち(ドワーフも居る)との旅を選んだ。
それは人間の寿命は短いと散々分かっている上での割り切った行動だったのだと思う。
それこそ生活の道すがら割と見かけるある程度コミュニケーションの取れる別の動物、くらいの感覚だったかも知れない。
それでも、最初に述べた通り、自分にとっては相手がどんな人物・存在であるか知る事が出来ないほど短い期間だけ関わった相手を喪うことに、大きな痛みや悲しみを伴って驚いただろうし混乱したことと思う。
傷付き切れない部分もあったかも知れないし、「悲しい」とか「辛い」とかいう言葉になっていないところから、どんな感情を自分が抱いているか分からない、という感じにもなったのかな…と思った。

だからこそ、分からないから知ろう、と旅に出るフリーレンを勇敢だと思うし、聡明だと思う。
弔うという感覚がどれ程あるのか分からないし、遺品を紛失しても
「無くし物には慣れているし」
「貰ったものはこれだけじゃないし」
と言っている描写もある。フリーレンの寿命の方が遺品よりも長いだろうことも当然見込まれていると思うし、遺品よりもそれに付随する想い出を大切にしていこうと思っているのだろうか…と思わせる描写もある。とはいえ物も大事。手元に戻ってきてよかった。

人間との時間はとても短い事が刷り込まれているフリーレンにとって、あの痛みがなんだったのかや、同じ時間を共有した仲間の存在が自分にとってどういった関係だったのか、という事も含めて知りに行く旅なのだと思う。

いずれヒンメルの死を悼む事や、フリーレンが死亡しない限り必ず訪れる弟子との死別を悼む事も、それを受け入れたり受け入れられなかったり、グリーフによる反応が強く出たりする事もあるんだろうな…と勝手に想像して
「うぅ……」
となってるし、それでもヒンメルは未来でフリーレンが1人にならないように、至る所に銅像を作っている。
時間と共に記憶は薄れていくものなんだろうけど、あちこちに銅像があって、ここでどんな風に過ごしたか思い出せるものが遺されているのはすごくいいな…。

いや、私の推しキャラが死ぬことだってあるだろうし……。みんな好きだよ…超可愛い……。

その旅路を、私も共にしているような、私のグリーフにも手を差し伸べてくれているような、そんな気がする作品。

私の中で大ヒットしている。引き続き応援しているし、楽しみにしている。

もう3月半ばってマジ?

3週間ほど地元に帰省していました。
長いでしょう。私も最初はこんなに長くなると思ってなかったんですよ。だから放ったらかしにしてた食器類が、帰宅して見たらめっちゃカビてたのが心の底からめちゃくちゃショックだったし自分の不精を恨みました。

帰省の理由としては、私にとってとても大切な戦友と呼べる人の弔問に(私は年末戦友たちと既に行ってる)行く意思がある方々をアテンドするのが1番大きなところでした。
アテンド要るか?っていう所に関しては、ご家族の方とは初めましてになるから、顔見知りの私が居た方が話が早いかなって言うのもあるし、私しかご家族の方の連絡先を知らないというのもある。簡単に住所教えられないしね。

で、春休みでもあるし地元の友だちとも会える人とは会える内に会っておきたいと予定を調整していたらこんな長期滞在になってしまったということです。

私にとって地元の友だちは何とも変え難い存在で、そもそも私と友だちをやってくれてるだけですごい人達なんだけれど、一緒に居て楽しくて、嬉しくて、応援したいしして貰っていると感じる大切な大切な存在なんですよね…。有り難すぎる。

ただ、地元に住んでいた頃の記憶はあまり良いものとは思えないというか、シンプルに地獄だったな……と思うので頻回に帰って会うという事もなかなか出来ないでいまして…。あとミャクミャク超怖いし……。

あの地獄を一緒に戦い抜いてくれた友だちの存在が無ければ私はサクッとどこかに飛ばされていっただろうと思うし、今回日程的にちょっと声をかけられなかった人も沢山居るので近いうちにまた会いたい。なんなら声掛けて欲しい(マジで強欲な発言)。

最近自覚したんですが、私には地元のコミュニケーションってすごくハイカロリーなんですよね。美味しいし楽しいけど疲れちゃう。毎日はしんどい。
すっかり東京に魂売りやがってという感じですが、これは私の治療が進んだ結果、私の体力精神力であの出力を毎日出してた方がどうかしてたってことが判明したというやつ。
もうちょい治療が進めばあの出力を日々出せるようになるかも知れないしならないかも知れない。そこはもうどっちでもいいんだけど。そもそも私が毎日元気とかおかしいからね。毎日元気は最早ハイなの。病的なハイなの。入院検討案件なの。

帰省中の記憶が飛び飛びで、特に大事な予定があった所はもうその日のうちに解離してすっかり記憶からどっか行っちゃった。
それくらい緊張していたしストレスフルではあったのだと思うんだけど、友だちと会えたのは本当に楽しかったし嬉しかったしまた会いたいし大好き。それ以外の要素が大き過ぎた。今度は慎重に対策して行こう。あと金で買える健康は買おう。

こっちに3週間ぶりに戻ってきて、毎日侵入的なフラッシュバック系の悪夢を見る。毎日詰られ怒鳴られボコられレイプされる。ぐったりぐったりですよ。
そういや帰省中は悪夢見なかったな。とは思うんだけど、そりゃあ地元にはこの系の悪夢を見られる(見せても大丈夫だと脳が判断する)程の安心感は無いもんな。
おかげさまで1ヶ月ぶりの定期受診で主治医からの
「それは解離と言えますねぇ…」
「悪夢は…それはフラッシュバックですねぇ…」
などなどを頂戴し、眠剤が増えました。薬増えると当面は胃粘膜との戦いになるからな〜。しっかり安眠したい。安心出来る場所で。

とはいえこれ系の悪夢は慣れはするのよ。引っ越したての頃は毎日叫んで起きてたもの。もう慣れたもんで
「はいはい悪夢悪夢。タッピングしまっせ〜」
という感じ。
けどマジで疲れるは疲れるのよね。
引っ越してきてすぐの頃と比べたら悪夢具合は比較的落ち着いてきてたんだけど、今はまた引っ越したての頃と同じ様な内容の悪夢だし。
季節的なものもあるかも。春はとんでも悪夢見がちだからね。
「あぁ、爽やかな目覚めだぁ」「目覚めスッキリ」
みたいな日はむしろ危ない。調子が高すぎて何しでかすか分かんないしコントロール効かなくなる。脱線暴走するし危ないこともする。
「……ハァーーーー…つっかれたぁ……」
って起きるくらいで丁度いい。

解離して記憶がすっぽり抜けているところに関して、本当に沢山の方にご迷惑をかけた事と思うし、絶対なんかやらかしてるはずだと思えてならないし、絶対めちゃくちゃフォローさせたと思うので心の底からお詫びさせて下さい…。本当に申し訳ないです……。
ただ本当に覚えていないので、どう改善するって言われると、薬の飲み方かな…?って感じになってしまう…。処方通り飲んでるんですが、ヤバい自覚がある時は頓服飲みます。その結果どうなるか予想がつかないところもあります…。ごめんなさい…。
今のところ誰からも通報されてないし怒られてないし、大丈夫だよって言って貰えてはいるんだけど、なにぶん記憶がないので絶対なんかやってるはず…という疑念&不安が強い。

とはいえとはいえ、自分の身体や状態の把握やコントロールが上手くなってきてはいるし、自宅の方にはケアやサポートのリソースがあるし、その希求力も上がってきてると思うし、なんとかなんとか、この春をやり過ごして、出来るだけ楽しく、出来るだけ健やかにやっていきたい。
まずは自分の状態を整えることから。

人のこと気にしちゃうんだけど。隙あらばケアやサポートに奔走したくなっちゃう欲は未だに健在なんだけど、これは私のただの欲望に過ぎないのでね…。
誰かにコミットしたい欲めちゃくちゃあるけど、まずは自分から…。

一人暮らしのいい所。コミットしたい誰かが物理的に遠い所にいるから私に出来ることは何も無いと分からざるを得ないところ。
誰かにコミットしたい欲があるはあるけど、むくむくしない。

インフルA型

メンタル弱々で体調は慢性的にどこか痛いタイプの私、10年ぶりくらいにインフルエンザになりました。

私の精神疾患はまぁ波はあるけど治ったみたいな状態には基本ならないもんなんで、元気な日って言っても健常者並に動けるという訳でもないのですが。

医療の発達のおかげなのか何なのか分からないんですが、症状激しいはずのインフルA型にも関わらず発熱しないという不思議。
私熱出ないと病院行かないからな……。今回も深夜に一応38.2℃出した(割とサクッと下がった)のと、試験期間なので公欠で追試にして貰うべく病院に行って検査した訳ですが。

症状だけで言うと、咳、鼻水、痰、くらいで。
私咳が出始めると結構激しいタイプなので心配されるんですが、喉は全然痛くなくて、腹式呼吸で咳してる感じなもんで全身の筋肉の方が負荷かかってる感じするな…。

なんだろう、昔インフルかかった時ってなんかもっと、ワクワクしてた気がするんだけど、今回ワクワク感が一切無いね。ご飯食べれてるしね。

私は何故か肌と感染症系には割と強くて、以前のアルバイト先でハイター水に素手突っ込んでも大丈夫だったし、風邪もあんまりひかない。ひいても風邪気味?くらいで終わる。コロナはまだなってないし、インフルも10年ぶりくらいなんでまぁ、久しぶりに感染しました。
平熱高いからか、熱出てもあんましんどくないんだよな…。

具合悪くなりたい訳じゃ決してないんだけど、普通に普通の体調不良に毛が生えた程度というか、インフル〜!!って感じが無くて、味わいに欠けるというか……。
寝込むくらい具合悪くならないと、インフルじゃない感じがしちゃうというか、言わばインフル損というか…。

インフルエンザってイベントに乗っかり切れてない感じで不完全燃焼感……。でもまぁ国が指定する感染症ではあるから各所に連絡してキャンセルやら予定合わせ直したりとかするけど、なんかな…。これが大人になるってことか……。
と、若干しょんぼりしながら養生します。

年明けましたね

旧年中はお世話になった方々がとても多くて、いや毎年沢山の方にお世話になってやっとこ生きてるんだが…とはいえめちゃくちゃお世話になりまくって入院もせず頑張れました。

年末は大学の発表やら、高校時代の友達やお世話になった方々の回覧板やったりやら、演劇の公演があったり、レポートの提出があったり、バッタバタのドタバタできちんとご挨拶出来なかったし、趣味の年賀状制作も出来なかった……。

去年、私が回復してきているから動けた事とはいえ、やりたくない対峙したくないけど向き合わないといけない責任をちゃんと取らないと…ということをやってしっかりめに具合悪くして、とはいえ授業頑張ったし友達と旅行行ったし、なんか毎月デカ目の激しんどイベントありつつもなんとかなった。
でももう去年はやりたくないな……。辛かったな……。診断名が2つ増えました。まぁもうこうなったらメガ進化みたいなもんですが、気分のいいものでは無い。名前が付かない苦しさと同じくらい、診断名が付くことで
「はぁ〜しっかり精神疾患人生…」
となる。

とはいえやっとこ年明けです。気分の切り替えにはうってつけです。
いや、年末年始ってメンタル弱弱の民にはクソしんどいイベントですが、具合悪くはなりましたが、とはいえ新しい何かが始まるのだという覚悟と期待を持てるというか。

そういう事で、実家でお正月を迎え、優しくてかっこいい友達と京都の神社に初詣に行き、昨年のお守りを返納して新しいお守りと絵馬とおみくじを買う(神社って若干金銭感覚バグるよね)。
で、その友達とおそろっちの「凶」を引き当てるというミラクル。

凶のおみくじの
「こういうの気を付けなはれや〜」
という文面、私、非常に心当たりがあるもんで、肝という肝全てに銘じます…という感じでした。
友達と同じ札だったので笑っちゃったけども。
「ちゃんと混ざってないんじゃないの…」とか思う余地も無いくらい自分の行動に心当たりがあったので、気を付けます。
縁切りや縁結びで有名な神社だったので、しっかりめにビビり、心に刻むぞと持ち帰ろうかと思った心が秒で揺らぎ、持ち帰るのを断念し、神社に結ってきた。
まぁその後喫茶店でわらび餅食べてカラオケ行って新年にやりたいことリストみたいなのを考えたりしたし、験担ぎ的なことは特にしてないのですが。
優しくてかっこいい友達は春から新しい環境に変わるので、良い縁と健康に恵まれてほしい。あと、出来れば私と継続して友達でいて欲しい。

別日に、中学時代を保健室登校で過ごしたフレンズと久しぶりに集まったりもした。
昨年結婚した友達も居て、お祝いしたいね!となったし、そういえば私たちは卒業時期がバラバラだった(私は卒業すらしてない)から卒業旅行的なものをやってないね〜てなって、旅行したい!ってなったり、写真撮りたい!っつって、久しぶりにプリクラ行こう!ってなって、
「待って、最後にプリクラ撮ったんいつ…?10年前…?やば……」
ってなって、最新型のプリ機に困惑しまくり
「私らが中高くらいの時はどこにでもプリクラあったよな…」
「今やゲーセンにしかない…」
「プリクラ値上げしてる…」
「使い方分からんのだが???」
「顔面を勝手にカマキリみたいにされるのだが???」
「デコる時間こんな短かった!?!?!?」
とパニクりまくった結果、おまけ程度の写真シールが印刷され、延々困惑してスマホでも写真撮った。

「現代のプリクラってのは盛れ写真撮影機ではなく、顔認証タイプのアトラクションゲーム機だ」

という結論に至った。写真はおまけで、あの過程を楽しむゲーム機だということになった。
中学時代の私に教えてあげたい。別にプリ帳満タンになる程プリクラ撮りまくる友達超多いタイプでは無かったけど、友達と遊んだらプリクラ行くみたいな流れは何となくあったな〜。今はプリクラに行くという明確な意図が無いと大都会でも発見困難ですよ…。お姉さんはびっくりしました。

そんな感じで、私の新年スタートです。
本年は大切にしたい人を大切にして、余計な事はしない、そしておみくじで言われた通り
「良かれと思って何かしようとしない」
を実践したい。タフラブ、出来るようになろう。あと演劇とも関係を持っていたいし、勉強も頑張りたいな。進路も考えないとな。

穏やかな1年っていうのは多分実践出来ないと思うけど、平和に耐えられるようになりたい。

あとなによりも、生活をちゃんとする。生きることをやる。忙しさにかまけて生活を蔑ろにしてもいいことないし、健康は遠ざかるので。借金しても健康なら返済出来るが、金があっても具合悪いと何も出来んからな……。何なら金もなく具合も悪いので、生活をちゃんとします。

入院するかも知れないけど、生きることを地に足つけてやります。大人初心者なもんでね。
立派な大人中堅~ベテランの皆様の良い背中をこれからも見せて頂けますように。
子ども達に見せられる背中であれますように。

本年もよろしくお願い致します。
よろしくないわという方は、程々の距離感で、どうぞ、お元気で。

冬が来ましたね

この時期はとても苦手で、毎年メンタルの具合を悪くするのだけど、今年は色々なイレギュラーや初めての出来事がとても多くて、それらに対しての正常な反応なのか具合を悪くしているのかの判別がなかなか難しい。

とりわけ、とても近しい後輩を亡くした事にとても強く影響されているように思う。四十九日も過ぎていて、こちらにはもう居ないのだと思うと、喪失感すら受け入れられない自分がいる。

私も自殺未遂は何度も繰り返しているし、私の友人たちもそうで
「たまたま生き残った」に過ぎない中を生きている人が私の周りには沢山いる。
だからとは言わないけれど、ある種の覚悟というか、自分の命と同様に友人や後輩の命もいつ失われるか分からないものだ、ずっと一緒に歳を重ねられる方がむしろ奇跡的だ、という感覚がある様に思う。

それでも一緒に色んな経験をしてきた仲間であり、戦友でもあり、私を先輩として育ててくれた大切な後輩であり、私より歳若い人が亡くなるという事はこんなにも苦しくて辛い、受け入れ難い事なんだと思い知らされる。

生活の面に大きく支障を来たした訳では無いけれど、それは脳が
「今はショックを受け入れられないから冷凍保存しときますね〜」
状態であるに過ぎない。いつか向き合わなければならないし、それはきっと近いうちに訪れる。
年末に友人たちと弔問に伺うことになっているけれど、私を含めたそれぞれが、その後具合悪くなるだろうけれど年末年始やらなんやらで忙しく、思い切って具合悪くなれなくてしばらくズルズルするんだろうという事もなんとなく想像がつく。

向き合うとはそういうもんで、時間をかけて納得したり受け入れたり、受け入れられない自分を責めたり、そういう気持ちがなかなか無くなったりはしないことを理解しながらゆっくりやっていくしかない。
その覚悟はしている。
しばらく向き合えないであろう事も分かっているし、後輩のお骨を前にして正気でいられるかも分からない。でもご家族の方々や友人たちの前で思い切り泣いたり取り乱す事も難しいと思う。

混乱をどうにか、自分の中で鎮めていくしかない。友人たちやご家族と共に、哀しむしかない。
そういう状態なのが私だけでは無いのも分かっているけれど、私は私の身を守らなければならない責任もある。人のことを心配して共倒れになっては意味が無いし、ご家族の方々に心配かける人を増やしてはならない。

誰のことも責めない代わりに、誰のケアも行わない。行えない。ケアを行う責任を負えない事を忘れてはならない。
具体的には、グリーフケアの情報や当事者会を紹介する以外の事は何も出来ないししてはいけない。

無力さと、それでも自分を大事にすること、自分を大事にしようとして沸き起こる自責が簡単に無くなったりはしないこと、自責で生活や心身を乱しても生き延びること、それが無意味では無いことを体で覚えるしかない。

今はまだ受け入れられない気持ちの方が強くて、つらつら書いてはみたけど実感としてはあまりない。
後輩がお骨になる訳が無いとどうしても思ってしまう。ましてや墓に入ったりなんぞしないという思いが強い。
自宅で線香を焚いたりはしてみているけれど、どうも実感としては弔意を含むものではない。
ご冥福云々とかご愁傷さま云々みたいな言葉が全く結びつかないし、言えないし、言ってる奴を信用出来ない。
それくらいには生きている彼を見てきた。