当事者演劇ではない、いわゆる演劇
ご飯作って食べる会
通院先で短期入院
自分を整える方法の獲得(できるだけ沢山)
専門の受験
生保で生きる覚悟を決める
これからも仲良くしたい人との縁を大事にしつつ、強火になり過ぎない
アラサーとして腹をくくる
連絡先教えても別にいいかという人とは連絡先交換する
ココルームに行く
着物を着ること
私は着物が好きだ。
美しさや可愛さを感じるし、日本の民族衣装としてと言うより、ファッション的に好きだ。
そして、海外の民族衣装も好きだ。
普段着物をとてもカジュアルに着るし、普段着としても着る。時間もかかるし面倒だけれど、自分に手間をかけてやることは、余裕がある時は自分を大事に労わっていると自分が感じられて悪くない。
毎年正月には必ず着物を着ている。そして着付けも毎年上達しているなと感じる。
高校時代に、在日コリアンの幼なじみに
「天神祭に行くから浴衣を貸して欲しい」
と言われたことがある。
あの当時は、幼なじみなので正直その本人しか見えていなくて、海外のルーツを感じたこともあまり無いし名前が日本人的ではないな、ということ位でしか海外にルーツがあるということをよく分かっていなかった。
なので、浴衣は安く買えば高校生でも手に入る価格帯の物もあるでしょ?
という感覚で返事をしてしまった。
その子のお家は総連系のお家で、その子を取り巻く周囲の人々はほぼほぼ在日コリアンで、伝統的なお家でもあって、安く買おうが家に置いとけないんだということが分からなかった。
私は民族衣装が好きなので、モンゴルへ旅行に行った時に着せてもらったり、コリアンタウンでチマチョゴリを着せてもらったりしたこともある。
だけどそんな感覚で浴衣を着たい、でも家には置いておけない、そういう事をよく分かっていなかったと感じる。
自分の国の民族衣装でなくても、着てみたいとか魅力を感じるとかって普通にあると思うけど、そういう事を否定される様な差別の歴史があることも分かっているから、私に連絡をくれたんだと今は分かる。
私もカジュアルにチマチョゴリを着ることはもう出来ないし、文化の盗用にあたると感じるから私はそういう事を控えたい。
だけどいつか一緒に着せ付け合いたい。
年の瀬も年の瀬に
今年って本当に動乱でさ〜とは毎年言っててもはや動乱の意味が分からなくなっていますが、お元気でお過ごしでしょうか。
私は診断名が2つ変わったり、増えたり、新しい症状が出て来るのをおっかなびっくり慣れよう対応しよう攻略しようとなったり、病院も保健所の担当者もカウンセラーも変わったり、新しい環境に慣れなきゃだったり、習い事を始めたり、演劇も何だかんだ1つは本番がある感じで続けてみたり、勉強に頭を絞ったり、高校同期の友達からの紹介でバイトしたり、色々やりました。ね。
友達との関係って難しいなとか、後輩から頼りにされるのは怖さもあるなとか、思えば10代の頃とは全然違う感性になっているなとか、ちゃんと向き合って考えなければいけないなということが増えました。
好きだったら(恋愛か友愛か親愛かとかは問わず)全肯定したい、
「何があってもあなたの味方だ」
と言いたい欲求の強さと、しかしそれは
「私が味方出来る程度のやらかしとかで済んでくれ」
という本心との折り合いが悪いな…私自身に不誠実だしその言葉はどこまで自分に嘘をついていないかが気になってしまうな、とも思う。
医師やカウンセラーには専門職として関わってくれな、あなたは友達じゃないから。みたいな感じでいられるからこそ、どこまでいっても対等な友達にはなり得ないと分かっているからこそのフレンドリーさってあるなとか。
所詮どこまでいっても私は私でしかなくて、代わりが効かない分責任も発生するし、私の責任は全て私に帰属するし。
先日受けたワークショップで、パースペクティブを行った。
ワークショップで発表はしなかった分も私は沢山の視座を持っているし、他の人もきっとそうだろうと感じた。
私は大阪人なんだろうか、とか自分のルーツやアイデンティティの揺れ動きや葛藤も生まれている。
それを必ずしも演技とかパフォーマンスにしなくても表すことが出来るなとも感じた。
自己を眼差す、他者を眼差し続けることや、大事に大切に思っていても時期やタイミングによってはそれを上手く伝えられないとか受け取れないということにあまり悩まなくなってきた。
良くも悪くも、人間ってそうだよね、みたいな。
縁は定期的に手入れしないとふっつり切れてしまうこともあるけれど、ひょんなことからまたご縁が出来る事もある。焦って自分の手の中に置いておきたいみたいな感情を今はあまり強く持っていない。
火加減が今までずっと強火だったな、友達強火担であることにプライドもあったな。と感じる。
それで身を焦がすこともあったし、他人に火傷を負わせてしまうこともあった。
でも、私は私でしか居られないから、こう、星の軌道の様に近付くことも離れることも、星が消滅することもあるから、瞬きあっていたいな。チ。を観てる影響もある……。
だけど、私を大事にしてくれる人のことは大好きなんだよな。みんなに幸せでいて欲しいんだよな。でも私に出来ることって限られていて、私は無力で。それでも私を続けなくてはいけないから、せめてチカチカとはしていたい。
改めて書いておこうと思ったこと
私はあの時、(もしミスジェンダリングしていなければ)男性のあなたと恋愛がしたかった訳ではありません。
大人であり、教員であるあなたに、助けを求めていたのです。
私は助けを求める子どもだったのです。
家族から、血縁者から、クラスメイトや教員から、近所の人々から、客から、社会から、暴力を受け続けて、自分にがっかりし続けて、生きることが好きでもなければ向いてもいないのに何度辞めようとしても失敗に終わり続けて、なんで死ねないのか、死ぬことが恐ろしいのかどうなのかも分からないまま、人より狭められた世界で人より時間をかけて人生を進めなければならないことが、1人では出来ない子どもだったのです。
あの時の全ての大人は、社会に生きる大人として、私や私のように生きる子どもを何とか助けようとすべきでした。その責任があったはずです。そして、そうした大人も少ないですがいらっしゃいました。
私が今社会に生きる大人として、全ての子ども達にその姿勢を示せているかと言われると難しいですが、少なくともそうありたいと思って行動しています。
助けを求められたなら、出来る限界・範囲を伝えて、出来ない範囲は他の人と繋がって、私も助けを求めながら助けようという姿勢は示します。
繰り返しますが、そこに恋愛は発生しません。
もし私が子どもに対し、あるいはお互いに恋愛感情が生じたとしても、私は責任ある大人として断ります。立場やパワーバランスも経験や心身の成熟度もあまりにも異なるからです。
この文章は、自分に宛てて書いています。
私が「恋愛」だと思い込もうとしたあの過程で行われていたのは「不適切な状況に対して起こった過剰適応」でした。
これ以上学校を変える訳にはいかない、あの居場所(当時のコミュニティ)を失う訳にはいかない、学校を辞めてあの居場所を失って、これ以上自分に失望することやされる事に耐えられないという強迫観念から起こった過剰適応でした。
そして低い自己肯定感から
「私程度の人間には不倫をする父親の様な年齢の相手で相応である」
という理屈をつけてなんとか自分を納得させようとしていました。
そうしないと生きられなかったからです。
生存のために私は私の認知を歪める事で対応しました。それは最良の行いではありませんが、当時出来る精一杯の最善でした。
今の自分の欠損感も、10代の頃に殺した自分が、自分の中に居ないから足りていない、という感覚に基づきます。
苦手シーズン
秋は不調。やうやう汚くなりゆく我が部屋。少し明かりて、眠気心身にたなびきたる。
古典コテンこてん_(:3 」∠)_
最近あまり自己嫌悪しなくなったことに、ひどく自己嫌悪している。
手段と目的が入れ替わったみたいで馬鹿馬鹿しいけど、なんだろう、自己嫌悪していない自分がどこかで取り返しのつかない失礼をやっていて、それに気付かないでひどく調子こいてる気がする。
あと普通に肉体疲労も溜まっているし、いくつかの通い先でイライラしてしまうことも増えた。
あからさまにイライラを表に出すことはしないし、していないと信じたいけれど、イライラしている事は事実なのだ。
みんな具合が悪そうだからたまたま色んな不調のタイミングが重なってイラッとしてしまう事もあるし、今まで目を瞑ってきたことにそろそろ限界が来たみたいなイラッともある。
人前では最低限、ご機嫌でいたいんだけどな…。
自分の面倒を見ることも中々億劫で、ご飯作ってお風呂に入って片付けて課題に取り組んでみたいなことを疎かにしてしまいがち。ひどく疲れている時とかに授業を休むことに罪悪感とかは無いけど、悔しさはあるし焦りもする。
頑張らなきゃな〜と思うことはあるけど、頑張れるのかしら…とも思うし、今頑張っていいのかしら…とも思う。
私が居なくても世界は回るんだから、まぁ頑張らなくたっていいんだけど、役に立つとか必要とされる事にひっそり喜んでしまう自分が情けない。
他人に対して
「甘えないでよ」
みたいな感情が湧いてしまうのが本当に嫌だ。
甘えな訳が無いのだ。むしろ上手く甘えられないからあんな不適切な表出になるのだ。
分かってるんだけどね…。なんだったら、
「やるなら上手くやってよ…」「私に見えるところでやらないでよ…」
って思っちゃう私の甘えなんだけどね……。
疲れていて他人に冷たい自分が、そのうち自分を眼差すだろうし、それと戦わないといけない時期も来るんだろうな。やだなーーーー。めっちゃやだーーーー。
いつでも誰にでも優しくありたいよ…。
なんだかどのコミュニティでも、誰に対しても誰かの弁明をしている気がするし、その時はその時なりに
「その言い方はこういう属性を持つ人に対してひどいよ」
みたいな感情で誰かの弁明をしたり、誰かの発言にストップをかけたりしているんだけど、それ私の仕事かな…?って思うし、私の感覚や感性が常に正しい訳ないのに誰かの弁明や庇いたてをする様なことしていいのか…?とも思う。
否定も肯定も、当事者ではない私がしていいんだろうかと思ってしまう。
私が当事者として攻撃される機会が減ったからかも知れない。
私が攻撃されてるなら容赦なくブチ切れるなり無視するなりすると思うんだけど、誰かが誰かの足を踏んでいる様に見えるけどそれはどうなの?
ってすることに迷っているし疲れている。
でも私には踏んでいる様に見えているから、
「それはどうなの?」
と思う気持ちは膨れ上がる。
否定も肯定も、してもしなくても、疲れてしまう。
直視しても、目を背けても、疲れてしまう。
誰のケアもタダでは出来ないシーズン。
私ごときが人のケアをしようなぞ烏滸がましいわという気持ちも、ある。
労働なら出来るケアってあるけど、それは大抵マニュアルがあって制限時間があって共有する相手があってのものだからね…。今はこういうの、無償では出来ない…。
秋じゃんね
皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
地元の方に(つってほぼゲストハウスに宿泊してましたが)3週間位おりまして、あちらは温暖な気候でまだまだ真夏って感じでしたが、自宅の方は少し秋めいてきており自律神経がやられます。
帰省中に台風と共に遅れた生理と偏頭痛がやってきてオーバーキルで寝込んだり、BIGLOVE祖父が他界して喪服を取りに東京大阪間の反復横跳びしたりで経済的なダメージを被ったり、何より親族の中で唯一私に説教とか支配をせずにただただ可愛がってくれていた祖父の突然の死にメンタルがったがたになったりしておりました。
少しおじいやんのお話と、宿泊していたゲストハウスのお話をしようと思います。
おじいやんは岡山の漁師町に第二次世界大戦中に漁師の子として10何人兄弟(正確な人数は本人も把握してなかった。戸籍とか見ればわかるって言ってた)の末っ子として産まれました。
兄弟の人数が多い事と、産まれる前に戦死したり結婚して家を出ている兄弟が多かったことから、正確な人数は把握してないそうです。
おじいやんはとてもアバウトな人だからそうなのかと思っていたけれど、きちんとが好きな祖母もそんな感じなので、そういう時代で地域で環境だったんだと思います。
おじいやんは漁師の子で魚好きだし釣りも好きだけど、船酔いするから漁師にならなかったそうです。
中学を出て大阪に出てきて、自動車の板金修理の職人をしていました。
私が保育所から祖父母の家に行き夕飯を食べて実家に帰る、みたいな感じで私たち兄妹の養育にもしっかり関わりました。
あの頃は定年退職していたはずだけど、技術職なのもあって時々働きに呼ばれて行っていたこともありました。ゴツゴツした火傷だらけの手で
「こんなん痛いことあらへん」
と平然としていたのをよく覚えています。人相の善し悪しの分からない幼児の私と時代劇を毎日一緒に見て
「こいつが悪いヤツや。顔見たら分かる」
と教えてくれていました。
技術職だし学生時代はズボンを作る仕事(?)などをしていたそうでミシンなども扱えるし、家具家電のちょっとした故障なら直せる手先の器用な人でもありました。
ただアバウトで雑な性格でもあるので、生活の中であまり器用さを生かそうとしているようには見えませんでした。
「こんなんちょちょーっとやったら直るんや!」
という感じのざっくりした人です。でも修理出来ちゃう。
中学時代、保健室登校だった私は通学路でクラスメイトとバッティングするのが嫌で、登校時間をわざとズラして遅刻して登校していました。それを気にかけた祖父が、毎日実家から学校へ車を出してくれました。その間1度も、
「ちゃんと学校行け」
とか
「じいちゃんに心配かけるな」
とか、そういった叱られたり責められたり急かされたりすることは気配すら感じさせることはありませんでした。
「孫とドライブ嬉しいな〜」
みたいな機嫌の良さすら感じました。ただ車をめちゃくちゃ飛ばすので、度々車体が浮いて怖かったし、
「スピード落として!」
というストッパーの居ない帰り道ではよくスピード違反で切符を切られていたそうで、それに関しては度々不満をこぼしていました。いや、それはさすがに知らんよ……。私が中学卒業後すぐに、免許は返納していました。
私が高校1年の冬に、おじいやんは大腿骨頸部骨折をしました。ただ本人は
「なんか痛いんや〜」
程度で普通に歩いていたし、年末年始で病院が閉まっていたので、家族も親族も
「まぁ歳やしあちこち痛くてもおかしくないわな。年明けに骨接ぎさん行って湿布もろといで」
みたいな感じで、本人もそんな感じで、年明けにかかりつけの接骨院に歩いて行って
「これ折れてますよ!すぐ病院行って!」
と怒られて、総合病院までチャリで行ってまた怒られて即入院していました。
これには家族も驚きで、大腿骨折ってて歩けるとかあるんやな…すごいな…というか注意して見てても分からんよこれは…という感じでした。
本人もいつ折れたのか分かっていなくて、そういう骨折もあるのか…転倒した訳じゃないしな…という感じでした。
退院後リハビリも行い杖をついて歩ける様になり、いつの間にかどこかで杖を無くしてきた様で、そこからは杖無しで普通に歩いていました。強すぎやばたにえん。
その後、癌になったりあちこち悪くしたりして何度か入院しましたが、どこに行っても可愛がられていたおじいやん。
くっっっっそ失礼な事とか迷惑な事とかやらかす人ではあるけれど、悪くいう人を祖母以外に知らないな…というくらいどこに行っても愛され可愛がられるのは末っ子気質なのだろうか…。
昨年夏に祖父母宅に帰省中、祖父は今まで無口だし会話よりフィジカルコンタクト(ちょっかい)の人だったけれど、なんか急にお喋りになっていて、祖父から出てくる話全部おもろいな…と思って聞いていました。
そのうちボケても、天然かどうか判別つかねえかも…みたいな所はあったけど、その時祖父から出た話はググッたら本当にあった話の様で、時系列もしっかりしていて聞いていて面白かったです。
ツッコミどころの多い人ではあったけど、誰も祖父を悪く言わない愛される人だったのだな、と通夜と葬儀を通して感じました。
通夜の日の朝、夢に出てきてくれたけれど
「わしゃこんなん食わん」
と、いかにも言いそう(というかよく言ってた)ことを言っていました。じいさんらしいわ。
入院中、せん妄があったりしてよく
「今日はこんなことがあった」
と報告してくれる内容が、なんというか、それがあってよく平然としてられるね?!という感じで、せん妄に勝てるというか、それが起こっていても気にしないでいられる人が居るんだな…強すぎやばたにえん…という感じでした。
私が何度か面会に行った時には酸素マスクが入っていて、感情失禁も起こるようだったけど、私が声をかけたら
「わーい、やったー」
と、普段のおじいやんからは聞けない喜び方を聞けてとても嬉しかった。可愛がってくれてるのは当然知っていたけどこんなにストレートに喜ばれるとは。
そして
「ちひろ、タバコ持っとらんか」
あぁ、見当識弱ってるのかなと思って
「ここどこか分かる?」
と聞いたら
「病院や」
と。
「なんで病院おるか分かる?」
と重ねて聞いてみると
「そらお前、あれや、病気やがな」
と。うんまぁ…怪我じゃないわな…。え、分かってて言うてんかな…天然かせん妄か分からんな…どこまで分かってるんかな…。となって、とりあえず
「酸素マスクしてる時にタバコに火付けたら爆発するよ」
とお伝えし、私の煙草はあげませんでした。後悔はしてないです。
ただこれだけしっかりしてたらまぁ回復出来るだろう、施設入所は検討しないといけないかもしれないけれど、もしかしたら自宅で介護も出来るかもしれない。とも思っていました。
亡くなる前日に私は美容院で結構な派手髪にして、次面会にいつ行けるかスケジュールを考えていたくらい、危なげない状態でした。
急変って本当に急だわ。
9月は悲しい思い出ばかり増えるから辛いと泣いた翌日に亡くなりました。
おじいやん、私の自説強化せんでええねん。
縁は定期的に手入れしないと勝手に切れたり弱くなったりするから、会える人とは会える内に会っておこうと思って長く大阪に滞在したけど、結果的に面会にも何度か行けて声が聞けて良かったけど。
おじいやんはキャラ強すぎて親族みんなおじいのモノマネ出来るから、通夜の席で誰かがおじいやんに声かけたら誰かからモノマネで返事が返ってくるという奇妙な時間でした。
おじいやんを天国に送り出す為の曲としてかける時間があったのだけど、選曲されたのが
「六甲おろし」
そして静かに聴いているべき時間のはずだし別に親族はそこまで阪神ファンではないだろうに何故かいつの間にか3番までフルコーラス斉唱になっていた。まぁ地域的に言ったら校歌みたいなもんやもんな、そら歌えるし歌っちゃうか、六甲おろし…。
私も野球のルールはよく分かってないしファンとかでもないけど、六甲おろしは何故か歌える。まぁスーパーとか商店街でもよく流れてたしね。
葬儀の席にはおじいやんの友達も来てくれて、おじいのド厚かましいやらかし伝説を聞かせてもらって、バタバタしていたからあまりきちんとお話を伺えなかったけれど
「やってんなぁじじい…」
という感じで一同大爆笑&平謝りでした。そのおじいやんフレンドはとてもお上品なおじいちゃまといった感じの方で、書かれた俳句が雑誌に載る様な方で、
「文化人じゃん!!!!!!!」
と私はびっくりしておりました。
基本的に情緒が安定してるとか、この人を悪く言う人は居ないだろうな〜みたいな印象とか、共通点はあるんだけどベクトルがあまりにも違い過ぎてね。仲良く出来るんだ40年も…という感じ。また機会があればおじいやんの思い出話を伺いたいな。私の知らないおじいやん伝説を聞きたい。
そしてそして、2週間ほど滞在したゲストハウス。
最初の1週間は初日を除いて体調不良で寝込んで、残りはおじい関係でバタバタして友達との予定も詰め込んで堪能し切れなかった感はあるゲストハウス。
こちらもとても良い所で、野生の名優というか
「この人話の落とし所見失ってるな…でもつまらないとか話長いとかは感じない、聞き入っちゃうし面白いし興味深い」
みたいなえげつなモノローグ(演説)をやってくれるおじさんとか、中学3年生のめっちゃ自由でフラットな子とか、毎朝ラジオ体操をしに来られるおじいちゃんとか、外国人観光客の方々とか、家出組の方々とか、ふらりとやってくる野生の名優たちのやり取りをただただ見られて聞けて良かったし、私にもめちゃくちゃ普通に話してくれてとても嬉しかった。
中学3年生の夏休みの宿題手伝ったり、高校入試にあたっての志望理由書的なもの手伝ってて
「多様性ってなにーーー???」
って言われて、うーん、今まさにだいぶ多様な場所に居ると思うけど…となって、多様性みたいなのが当たり前過ぎると自分は多様性から縁遠いと感じるんだなぁ…頼もしいな…となったりしていました。
精神科のお医者さんのことを「公安の手先」って言う人初めて見たよ、とか、ここは古い町なはずだけど、でも大阪弁をあんまり聞かないこの場所で多様性ってなんぞと問われるとか、えげつなモノローグおじさんの演説中に
「屁の河童ってなんで屁の河童なん?河童の屁じゃないん?」
と単語単語に飛びつく中学生とかそれに対して
「確かに…何故河童の屁じゃないんだろう、『なんとかかんとか屁の河童』みたいな前文があったのだろうか…」
と話し始める大人たちや
「いいからはよご飯食べちゃい」
と言う大人たちの中でひたすら爆笑して堪能してる私という感じでした。
毎日出かける時は
「行ってらっしゃ〜い」
帰ってきたら
「おかえり〜」
と声をかけてくれて、祖父のお通夜、葬儀で親族から派手な髪色をガン詰めされたことをこぼすと
「あなたは何も恥ずかしくないよ!」
「染めたてなんて1番綺麗な色の時に送ってあげられて良かったと思うよ」
と、親族の否定はせずに私の肯定だけしてくれるゲストハウススタッフの方々や、私が生理痛と偏頭痛で寝込んでいるとSNSに投稿したら
「必要なものあったら買ってくるからDMしてね」
とリプしてくださった宿泊客の方々の
「なんで初対面の人にそんなに優しく出来るの!!」
というような温かさ優しさになんだかずっと感激していました。
人疲れしてしまう私にはあまり長く居られない場所かも知れないけれど、他人と繋がりたい意思のある時にきっと拒絶されずに受け入れて下さるだろうと思えるなんていうかコミュニケーション玄人の方々。間合いの取り方がプロ。迷いの無い1歩目。実戦だったら死んでた。すごかった。
私もあんな風でありたいし、また帰省する時にまだあって欲しいから私も全然お金無いから少ししか払えないけどお金払いたい場所だなと思いました。
なんだか情報量の多い帰省だったし疲れたけど、帰れてよかったし新しく帰る場所が出来たのも良かった。
なんだかうまくいかない
そんなもんです。
寂しいのに人と会いたくない。疲れてしまう。
友達と会うために帰省しているけれど、実家に長期滞在は無理過ぎて、西成のゲストハウスに長期宿泊している。
このゲストハウス非常に居心地良いところなのだけど、初日に調子の高かった私はめちゃくちゃ楽しい初日を過ごし、翌日から本来のコミュ障発揮し、解離したりしている。
人と話すのは楽しいけど、話す度に
「過剰適応…」
と脳に囁かれる。
放っておいて貰えるのだからありがたく放っておいて貰えばいいのに、でもみんなで囲む食卓に入りたくて、でも疲れることにお金使わなくて良いじゃないという自分も居る。
生理が大幅に遅れているし、台風も遅れている。
ここ数日叫ぶほど痛い偏頭痛で目が覚める。
友達と観に行った演劇はとても良かったんだけど、出演者の方々にキモがられるのでは……と思うレベルの長さの感想文を送ってしまい
「返信に気を遣わせてしまうじゃないかばか!!!!!!!」
とも思っている。でも素敵だったしかっこよかったんだ…。人生賛歌だと思ったんだよ…。
好きな人達に、好きなところとか良いと思うところを伝えられないまま疎遠になったり死んだりしたくない…ギリリリリ…みたいなところもある。
上手くいかない波の時なんだろう。
どうしようも無い波には逆らわない。
東京が恋しい。