おとなになるぞ

頑張らず頑張りたい

冬が来ましたね

この時期はとても苦手で、毎年メンタルの具合を悪くするのだけど、今年は色々なイレギュラーや初めての出来事がとても多くて、それらに対しての正常な反応なのか具合を悪くしているのかの判別がなかなか難しい。

とりわけ、とても近しい後輩を亡くした事にとても強く影響されているように思う。四十九日も過ぎていて、こちらにはもう居ないのだと思うと、喪失感すら受け入れられない自分がいる。

私も自殺未遂は何度も繰り返しているし、私の友人たちもそうで
「たまたま生き残った」に過ぎない中を生きている人が私の周りには沢山いる。
だからとは言わないけれど、ある種の覚悟というか、自分の命と同様に友人や後輩の命もいつ失われるか分からないものだ、ずっと一緒に歳を重ねられる方がむしろ奇跡的だ、という感覚がある様に思う。

それでも一緒に色んな経験をしてきた仲間であり、戦友でもあり、私を先輩として育ててくれた大切な後輩であり、私より歳若い人が亡くなるという事はこんなにも苦しくて辛い、受け入れ難い事なんだと思い知らされる。

生活の面に大きく支障を来たした訳では無いけれど、それは脳が
「今はショックを受け入れられないから冷凍保存しときますね〜」
状態であるに過ぎない。いつか向き合わなければならないし、それはきっと近いうちに訪れる。
年末に友人たちと弔問に伺うことになっているけれど、私を含めたそれぞれが、その後具合悪くなるだろうけれど年末年始やらなんやらで忙しく、思い切って具合悪くなれなくてしばらくズルズルするんだろうという事もなんとなく想像がつく。

向き合うとはそういうもんで、時間をかけて納得したり受け入れたり、受け入れられない自分を責めたり、そういう気持ちがなかなか無くなったりはしないことを理解しながらゆっくりやっていくしかない。
その覚悟はしている。
しばらく向き合えないであろう事も分かっているし、後輩のお骨を前にして正気でいられるかも分からない。でもご家族の方々や友人たちの前で思い切り泣いたり取り乱す事も難しいと思う。

混乱をどうにか、自分の中で鎮めていくしかない。友人たちやご家族と共に、哀しむしかない。
そういう状態なのが私だけでは無いのも分かっているけれど、私は私の身を守らなければならない責任もある。人のことを心配して共倒れになっては意味が無いし、ご家族の方々に心配かける人を増やしてはならない。

誰のことも責めない代わりに、誰のケアも行わない。行えない。ケアを行う責任を負えない事を忘れてはならない。
具体的には、グリーフケアの情報や当事者会を紹介する以外の事は何も出来ないししてはいけない。

無力さと、それでも自分を大事にすること、自分を大事にしようとして沸き起こる自責が簡単に無くなったりはしないこと、自責で生活や心身を乱しても生き延びること、それが無意味では無いことを体で覚えるしかない。

今はまだ受け入れられない気持ちの方が強くて、つらつら書いてはみたけど実感としてはあまりない。
後輩がお骨になる訳が無いとどうしても思ってしまう。ましてや墓に入ったりなんぞしないという思いが強い。
自宅で線香を焚いたりはしてみているけれど、どうも実感としては弔意を含むものではない。
ご冥福云々とかご愁傷さま云々みたいな言葉が全く結びつかないし、言えないし、言ってる奴を信用出来ない。
それくらいには生きている彼を見てきた。