おとなになるぞ

頑張らず頑張りたい

性被害について

性被害について書きます。
ただ、あくまでこれは日記であり、これをもって告発する意図は無いし、そもそもまだまだ混乱していて時系列もバラバラで読みにくいと思います。
また、内容が内容な為、しんどくなりそうな方はどうぞ、読まないという選択をして頂ければと思います。




















私は高校時代から継続した性被害を受けていました。「いつまで継続した」と切るのは難しく、別れたあともなんだかんだと関係が復活したりしなかったり、しないのに肉体関係を持ったりしていました。

私はその(とりあえず今まで続いたと切って)5年間の事を、不倫だと思い、誰にも話せていませんでした。

そして昨年、カウンセラーと、信頼の出来る方数名に話しました。
そして先日、どうしても気持ちのやり場が無くなる事があり自分が何をされ何を思ったのかがもうなにも分からなくなり、性被害ワンストップセンターに連絡しました。その方から
「あなたは不倫だと思って言えなかったんだろうけど、そう仕向けたのは加害者ですよ。未成年だったんでしょう?それは性加害ですよ、あなたは何も悪くない男が全部悪いんです」
との言葉を頂きました。正直、憑き物が落ちたようです。

そして、「グルーミング」という言葉と昨年出会い、私が誰にも助けを求めたり出来ないように、そもそも被害を「被害」と思えなかったりするように、(自覚してそうされていたのかは不明ですが)そうされて来たのだと衝撃を受けました。

その事と、ワンストップセンターの相談員の方との言葉が私の中で結び付いて、私はずっと「性被害」を受けていたのだと気が付きました。

私が、「不倫だ」とか「これは恋愛だ」とか「慰謝料が発生する」とか「後でちゃんとする」とか「バレちゃいけない」とか「愛してるからお金は払わない」とか「子供たちが成人したら結婚しよう」とかそういうのでぐちゃぐちゃに潰されていたと気付き、被害者としてのしんどさや負担はあるのですが、一旦自分を責めるのはやめてみようと思います。

正直未だに、加害者のご家族の方々に申し訳ない気持ちもあるし、後ろめたい気持ち(私も楽しんだろ?助けて貰ったろ?みたいな)もすごくありますし、それで押し潰されそうです。

当時の自分は今から思うととても自己肯定感が低くうつも強く出続けている状態だったので
「不倫するような人と付き合うのは嫌だし将来も考えられないけど、私程度の人間にはそれくらいの人がちょうど良いのだ」
といった歪んだ認知があったな、とも思います。そもそもずっと断り続けて、断る事の罪悪感に耐えかねて折れたというスタートだったのもあり、強く断ったり拒否する権利が自分にあるとも思えていませんでした。

だけど、私が激しい抵抗が出来なくても、私が楽しんでいても、私が誘ったとしても、大人である加害者は、私に加害してはいけなかったんです。

この事をどう処理するか、まだ分かりません。
これを読まれた方は、加害者が誰なのか想像してしまうと思いますが、どうか出来るだけそういうのはやめてください。詮索しないでください。どうするかは私が決めます。
そして加害者には、私への接触を一切絶って頂きたい。電話、メール、各種SNSも直接もやめてください。もはやあなたは恐怖でしかないのです。

(とはいえ過去にも性被害を受けたことは(大小含めると)結構あるのですが、ここまでメンタルに強い影響を及ぼしているのはこの件だけで、「なぜだ…」という気持ちもあります。)

演劇をしてきた

先日、某団体に参加して横浜で演劇をしてきた。
急遽の参加だったため、稽古に2回しか参加出来ず、アンダーキャストとして台詞を覚えたり、複雑な出ハケを覚えたり、自分の出演シーンの段取りを覚えて重なる変更についていったり、他の出演者の出ハケのQを出したり(それを覚えたり)と、頭から煙が出そうになりながら参加していた。
いや、台本解釈や役作りの時間を取れなかったのめちゃくちゃ悔しいが楽しかった。

去年はそんなこと無かった。
本番の日の1年前は、措置入院中でお箸を叩き折って飲んでちょっとした騒動を巻き起こしていた日だった。
初めての精神科入院で、初めての閉鎖病棟で、世の中が私を無視して通り過ぎていくという感覚が強く、私は生きているのに存在しない事にされているという恐怖が強く襲いかかっていた。

生存の無視をされる恐怖がリアルな感覚として分からない人は、とりあえず戸籍を失ったと思ってもらったら良いと思う。そんな感じ。
どれだけここにいると叫んでも届かない絶望感と憤りが常にあった。

何をきっかけにしてお箸を飲んだのかはもう思い出せないけれど(多分病院がクソだったからだろうけど)、この恐怖や絶望や憤りは常に根底にあったと思う。
だから入院中に体調が落ち着いてる時は、ずっと演劇がしたかった。生存を叫びたかった。私が生きている事を(あるいは暴力を伴ってでも)認めさせたかった。

だから今年、絶対措置にはなんねぇぞみたいな意気込みでもって苦手な季節をやりくりしていたのだけど、この時期にひゅっと演劇の話が舞い込んで来たのは何か運命的なものも感じた。参加する団体が、精神疾患などを持つ人たちの団体だったのも、なんとなく、あぁそういうことなのかな。とか思った。

ひさーしぶりの舞台、色々あったけど祝福された空間だったなと思う。
改めて、あの場に居ることが出来て良かった。

Killer Queens観劇

先日、リーディングミュージカルKiller Queensを観劇してきました。
リーディングのお芝居もミュージカルも観たことはあるけれど、リーディングミュージカルっていうのは初めてで、
「誰が誰に歌ってるとか分かるかな…」
的な疑問と不安を持ちつつ劇場へ。

私は千秋楽の観劇だったので前評判がとても良いというのを目にしていました。そして、事前情報とかネタバレとか大丈夫、というかバンバン入れていきたいタイプなので流れてくるタイムラインを読んだり事前情報を勉強したりして観劇に臨みました。

そしたら、リーディングなのにもう台本離せるんじゃ無いですか?ってくらい皆さん動くからびっくり。
でも、お芝居の構造的にリーディングにされたんだなっていうのも理解出来ました。ただその構造のグロいこと。いや、ト書がグロいし、ト書が誰なんか分からない不気味さもあるし、その誰か分からんやつに従わされる怖さもあるしやばかった。

コンテストを仕切ってるマスターさんは典型的な令和のセクハラパワハラのセ・パ両リーグ開幕してるめっちゃ歌上手おじさんでキモおもろかった。個人的には
女性部下にちゃん付けと、初対面年下女性への頭ポンポンと、当然の指摘を受けての
「傷付くなぁ…聞きたくなかった…(論点すり替え被害者面)」
がトップスリー無理やった。
「出、出〜僕辛悲圧倒的被害者可哀想泣泣奴〜!!」
って思って笑ってしまった。やかましいわなに歌上手いねんしばいたろか。
いや、お見事な程よくお見かけする被害者仕草で!って思ってました。

キラー達はなんか全員好きやった。飲みに行きたい。個人的にはジュジャンナ・ファゼカシュさんが好き。お茶目可愛い強い。親戚になりたい。それか近所に住んでて欲しい。お茶会参加したい。

曲もめっちゃ良くて、好きな歌がいっぱいある。
拝啓ジャック・ザ・リッパーが1番好き。
あと、ラブアンドフォードで女性たちが連帯していく姿にグッときました。

のに、直後にマスターおじさんに女性の敵は女性的な分断を生まれて、お前マジお前って思ってました。
けど、分断を煽られてもなお連帯して、生きてていいじゃんうちら最高っていける力に希望を感じたし私も連帯してますよ…!!という気持ちになりました。

あと、現代日本において、いつまでも私たちが可愛く慎ましくわきまえてると思うなよ舐めんなっていう怒りもヒシヒシと伝わってきて、そうだそうだ〜!ってなってました。あと、ミソジニーミサンドリーを同列に語るのって無理があるよなぁとかも考えたりしました。

観劇前は自分と境遇が近いキラーに感情移入しちゃうのかなと何となく思っていたのですが、どのキラー達も魅力的で、殺人を肯定するつもりは無いけれど、殺人まで追い込まれる環境って未だにあるんだよとも思ったりしました。

すごい楽しかったです!

しんどいけれど

寒暖差のせいか秋の花粉のせいか、目は充血して痒くなるし痰を吐けば血が混じってるし鼻水止まんないし耳だれもすごい。
皮膚も荒れまくっている。頭皮とか特にやばい。

生活も乱れてきている。ヘルパーさんや訪問看護やカウンセリングが各週1であるからまだもってる方だと思うけど、疲れやすいし体が重い。気分も沈む。

とはいえ薬を信用して飲んだり、情報と距離をとったり、なにより休むことが出来る様になった事が今までと大きく違うところ。

つっても毎日悪夢ばかり見るし睡眠薬は強いものを多めに貰ってるけど効かなくて、明け方にやっと寝られる程度だけど。
ご飯も朝ご飯はパンを焼いて食べられているけどお昼ご飯は作る気になれなくて薬だけ飲んでいる。夕飯は冷凍ものか、単品の煮物。ご飯はあまり食べないし炊飯釜洗いたくないからあまり炊かない。お風呂にも気がつけば1週間くらい入ってない。

とはいえこれは進歩なんですよ。
人の気配が無いと自分を保てなくてすぐに死が頭をよぎり、それを払拭する為に自傷を繰り返して仕舞いには自殺未遂して措置入院していた去年までを思えば。
死が一瞬頭をよぎっても片手で握りつぶせる様になったのだからすごい進歩なんですよ。
自己バッシングする変な自分が現れた時も
「出 た よ」
と思ってるし、自分の感情を盛ったり矮小化したりせずに、そのまま正直に自分で受け止めたり話したりする勇気も持てるようになってきた。自分の感情に責任を持てるようになってきたのだと思う。
まだまだ振り回されるけれど。

誰も信用出来ないししないと思って嘘まみれで明るく元気に楽しく振舞っていたり、人恋しさのあまり相手の事情を考える余裕も無く誰彼構わず連絡して自分を保っていた頃よりは、自分の感情の手綱を握れる様になってきた。

毎日しんどいけど、自傷も減ったし自分を殺してまで無茶な事もしなくなった。

生きていけるかは分からないけど、死なないようにしている。

そういえば、愛されている事の感じ方のコツを少し掴んだ。
以前は毎日毎時間毎分毎秒、
「大丈夫?私はあなたを愛しているよ」
って言われないと飢えてしまって他人を妬んで自分を傷付けて傷を付けるから
「大丈夫?」
って言ってもらおうとしていた。
けれどもコツを掴むと2週間に1回くらいでメンタル的笑顔を向けて貰えれば大丈夫になった。
メンタル的笑顔ってなんだ。

こういう成長を、喜ばしく思いたい。感慨が無い。もったいない。
コングラッチュレイション 私。

友達と呼ばせて

先日、私のお友達が我が家に来て合同お誕生日会をしました。
お友達は用意周到で、沢山の飾りものやイベントグッズとプレゼントを持参してくれました。なにより、とても嬉しい手紙をくれました。
私はとても感動したし、尊い瞬間だと思い、この瞬間が永遠に続かないことをとても悲しく思いました。
いつもそのお友達には、助けられ、救われ、励まされています。これからも大切にしたい。


私は過去に、一緒に遊んだり、誕生日を祝ったり、私が力になれることがないか探し、私なりに心と力を尽くし、大切にしているつもりの人と、気まずくなり疎遠になったり嫌われたり絶縁を申し渡されたりそもそも友達じゃないと言われたりしたことがあります。
おそらく私に発達障害適応障害、不安障害や愛着障害人格障害があり、距離感を上手く取れ無かったことや、勝手に距離や関係性を思い込み配慮を欠き傷付けたり辛い思いをさせる言動をしたり、負担を強いることをしたのだと思います。
その人たちと関係を絶たなければならなくなった事や、気まずくなってしまったことを、とても悲しくショックに思い、後悔し、申し訳なかったと思っています。そしてもし過去に戻れても、どうしてそうなったのか、どうすればよかったのか、今でも分かりません。
だけどそれは伝わらなくても良いと思っています。
私の事をどう思うかは、その人の持ち物です。私の感情で左右しなくても良いものです。

そしてこうした事も、初めての事ではありません。

だから、先日お友達がお泊まりに来てお誕生日会をする事に、正直恐れを抱いていました。
私は不出来な人間だから、また友人を失うきっかけを作ってしまうのでは無いかと思ったからです。

私は、自分が大切に思う人とは、大切に思うほど、距離を置くべきなのではないか、私には大切な人を大切にするスキルが無く、スキルが身に付くまでは近付くべきでは無いのではないか、と言うより障害は治ることは無いのだからスキルを身に付けるなんて現実的では無いのではないか、同じことをまた何度も繰り返すのかとも思いましたし、今も恐れています。

しかし、お友達とこれからも仲良くいたい、大切に思っている事を伝えたい、共に生きていることを祝福したいという気持ちを抑えることが出来ませんでした。

だからお友達、ごめんなさい。
私みたいな人と一緒にお誕生日を祝ってくれてありがとう。
そしてどうか、あなたが私を嫌になるまで、あなたのことを友達と呼ばせて。

寿いだ話

友人の成人を祝ってきた。

とても大切で大好きな友人。
真面目で繊細でとても豊かな感性を持っている尊敬すべき友人。
人より沢山、選べない苦悩をしてきた友人。
居るだけでほっとする空気を作れて、背筋を伸ばそうと思える友人。

そんな友人が成人を迎えたことは私にとって生きる勇気や感動になっている。勇気や感動なんてチープな言葉では到底表しきれないないけれど、確かに芽生えている感情としてある。

友人を特段子供だと思ったことは無いけれど、未成年として当然配慮すべき存在だと思っていた友人が、もう大人なのだという敬意が湧き上がってきて、私も背筋を伸ばそうという気になる。共に大人として世の中をサバイブしてゆこうという仲間意識のような気持ちも芽生えている。

このブログを見ているかもしれない友人へ
あなたは素晴らしい。
あなたは美しい。
大人は楽しいことばかりでは無いけれど、世界をクリエイトしていくことがどんどん可能になるよ。
まだまだ私も成人3歳児だから分かんないこと沢山あるけど、学んだらシェアするので一緒に世の中クリエイトしていこうね。
成人おめでとう。ありがとう、大人になってくれて。

カッティングについて

私は自傷をする。カットする。足を、太ももを切る。毎日ではない。ただそわそわしたりドキドキしたり頓服を忘れてしまったりパニックになっていたり具合が悪い時は切る事がある。
それはひとえに少しでも息をしやすくするためだ。
私は呼吸ができない時、傷口から酸素を取り入れる事がままある。そうでもしないと息が出来なくなる事が度々あるということだ。

私はその行為について叱られたくないし、心配されたくないし、慰められたくない、迷惑がられるのは最悪。
私は息をしているだけで偉い。

私は私の足や傷を愛している。傷付けられ続けても傷つき続けても、私を死なせず譲り渡さなかった生存の闘いの勲章だと思っている。

傷付いた時、本当は薬で落ち着く方がいい事も分かっているけれど、いつでも薬がある訳じゃないし、すぐに効いてくれる訳でもない。
それでも何とかこの暴れ馬のような私を乗りこなすために薬もきちんと服用している。

そんなに傷付くならなんで傷付く場所から離れないのかという気持ちもあるが、傷つき易いからといって好きな事を諦めなければならないのは悔しいし嫌だ。私は今、自分が選んだ居たい所に居ることが出来てきつつある。
好きなことや場所で息が出来なくなる事があっても、私はそこが好きだから、傷付いてもそこに居たい。
私が傷付かない空感や時間が続けばいいと思うけど、そう上手くはいかない。
私は簡単に苦しむし傷付くし息が出来なくなる。

言いたいことがあるなら社会を、傷つき易い私を、過去を、今を、何とかしてから言って欲しい。他にどうしようもないし私は生きる為に頑張っているからこれ以上誰かに責められたくない。

これを書いている私は泣いている。