おとなになるぞ

頑張らず頑張りたい

退学式を終えて、6年間の振り返り

3/20に、退学式を終えた。その後その足で退学生と在校生と引率の先生とで退学旅行(在校生にとっては修学旅行)へ行った。

旅行のプランを立てていなかったもんで、旅のしおりを作らなかったからしくった!修学旅行じゃねえ!とは思ったものの、私たちはそもそもしおりがあってもその通りには動けないし、必要なものもそれぞれ各々で違うのだから意味が無いよなと考えを改めた。

退学式は、遅刻多数も含め概ね想定通り進み、穏やかに愉快に終了した。

式中に私は高校6年間のことを思い出そうと思ったけれど、ほとんどを忘れてしまったり、「高校の記憶」というより「私の記憶」になってしまっていて感慨がそんなに深くなかったりして、どんな学生生活を送っていたのか分からなくなってしまった。

ただ、ハードモードな高校生活を何とか(退学という形で)終わらせる事が出来て、その行動は私が選択したと思えていて、私自身を祝福するつもりでいられている事が、シンプルに良い事だと信じられた。

私はうっかりすると、自分で選ぶ事を嫌悪してしまう。あれやりたいな〜とか思っても、他の人に聞いて事実上私の選択でも、形式上は他の人に決定して貰ってたりする。

なので、私が私の責任のもとで退学という選択をし、それを自分で、自分にも自分の過去にも偉いぞ〜と祝福出来て、他の人にも祝って欲しいと外に開いた事は、高校6年間で私が大きく変わったところだと思う。

高校1~2年生くらいは、真面目で潔癖で堅くて自己肯定感が低くて、良い子であらねばならないみたいな呪縛も強かったし、この世のありとあらゆる疑問文は全て私に向けられた叱責だと思っていたし、他人が叱られているのを見て泣き出すくらい常に自分は責められていると思っていた。

教科書には絶対クラスと学籍番号と名前を書いていたし、単位が取れなくて翌年もう一度同じ授業を受けないといけなくなった時、教科書のクラス名を書き直すのに身がちぎれる様な思いをしていた。情けなかったし恥ずかしかったし悔しかったし、自分という人間に毎分毎秒がっかりしていた。

数日休んだあと先生に

「おっ、久しぶり」

と声をかけられる度に恥ずかしさと気まずさとで死にたくなったし、単位を取れなかった授業の先生に学校で見つかるのが嫌で逃げまくったり人の影に隠れたりしていた。

今から考えると涙ぐましいやらいじらしいやらで意味が分からん。いやぁすごい変化やわ。そら生きんのしんどい。

でも私が(少なくとも声をかけてくる先生から隠れたりしなくなる程度に)神経太くなれたのは愛して祝福してくれる人が居て私を肯定して育ててくれたからだ。

そして当時私の神経が細かったのは、それまで出会ってきた人達が私の神経を育てたりせずに削り続けてきたからだ。

私はあの時の自分や、あの時の自分と重なる人を馬鹿にしたり責めたりしないようにしようと思う。あの時ギリギリ残っていた細い神経を、ちぎり捨てるという選択をしなかった自分の根性を褒めたい。死にたくて死にそうでもなんとしてもどんな手段を使っても生き延びようとした自分の矛盾を褒めたい。

 

2年生の終わり頃、私はうつ病を発病した。

 

高校3年生で、まぁ色々あり良い出会いもあったけれど、それでも色々あり、いよいよ本格的にうつが酷くなった。

何も食べれない寝れない起き上がれない本も読めない音楽も聴けない映画も観れないし他人と会話も成り立たなくなった。頭が壊れたと思った。この時私は(寝たきりだから当然だけど)バイトもしておらず学校にも通えていなかった。

「私は何もしていないで他人に迷惑ばかりかけている。死ななければならない。死にたいとか自殺するなんて傲慢だ(自殺は自分で選んでする事だから当時の自分は自分に選択権があるものを選んではいけないと思っていた)。誰の役にも立っていないどころか生きてるだけで迷惑なのに更に地球の酸素まで奪っている。このゴミ。せめて光合成くらい出来ろ」

みたいな地球規模の自己嫌悪までしていた。

もう意味が分からないけれど真剣だった。

私は自分という人間をもうとっくに見限って見放して見捨てているのに、私の命や魂なんかが私の体の中にあるせいで私は私を運営しなければならないという事が耐えられなかった。私を運営する何かを民営化したかった。

もし私の知り合い全員に私の生死選択権があって投票で決まるとしたら100:0で死ぬに可決すると思っていた。

当時の日記に

「私以外の人達は私と関わるかどうか選べるからずるい。私は毎日24時間365日私と関わり続けないといけないのに、選べるなんてずるい。私だって私なんかと関わりたくない。」

と、書いていた。

うつが少し落ち着いた頃にコンクールに出た。ずっと寝込んでいたから、台詞を一言言う度に息切れして熱を出していた。当時体重は35kg程度だったから仕方ないと思う。

コンクールで褒めてもらったあと消し炭にされたり4年生になるのを許せなかったりでうつが悪化したりしつつバイトを始めた。

高校4年生になって、自己嫌悪しながらだけどバイト先がプラチナバイトだったのと、映画に出たりプロの劇作家の方に当て書きで書いて頂いた脚本を上演出来てめちゃくちゃ評判(というかウケ)が良かったりで、生きてれば良い事もあるんだという当たり前かも知れない事を初めて知った。でも5年生になる自分の事はやっぱり許せなかった。

高校5年生はもっと視野が外に開けて、自分が悪いと思っていた事や、仕方ないと思っていた事がどうやらとんでもなく私に対して失礼な行いだったと気付いたりした。当然怒った。

あとジワジワ4年生の頃から気付き始めていた

「自分は本当に恵まれている(にも関わらずちゃんと普通に普通の事が出来ない自分が馬鹿でゴミ)と思っていたけど『恵まれている』のスタンダードでは無いのでは…?」 

という疑念。5年生になるかならんか位で少なくとも金銀の家族では無いと確信した。

それに伴う怒りや呪いや嫉妬や苦しみみたいなのをどう処理するかでもがいた。私を形成していた土台が全て崩れてしまった。

私がこれから健全な人間関係を築くには必要なショックだったのかも知れないけれど、私や私の育ち方が普通では無い事や、「普通」に育てられた人から向けられる視線や扱いが不当で失礼なものであると気付くのは本当に辛いことだった。その反動で

「あなたは私に対して失礼だ」以上の感情で怒り散らし呪いのめして自分の心身を傷付けた。

秋頃から毎日吐くようになった。

高校6年生になって、なんかもう、なんの感慨もなかった。けど、もっともっと視野が開けて、私は生き延びて、生きる事に長けた長期不登校経験者になろうと思った。誰かのロールモデルの1つになろうと思った。

あと、私の苦しんでいた自分の幼さ(精神的な年齢のばらつき)に

「あぁ、この部分は私は誰からも育てられてないんだな。精神も勝手に育つ訳では無いのだな。私は

『愛され祝福されて育った人は甘ったれの癖に私より大人(な部分がある)。厳しく沢山の経験をして育ったのに私は幼稚だ。なんでだ。』と思って苦しんでいたけど、あの人たちはきちんと育てられているからその部分が育っただけなのだな(つまり私も育てれば育つのだな)。厳しくしてりゃ立派な人格になる訳じゃねぇな。世間の嘘つき!あとろくすっぽ育てられてない中でここまで来た私すげえ」

と、思えるようになった。

これは私にとって大きなことで、誰かが私を見ているなんて思って無かったし、目標とされたり選択肢の1部になるのを前提にものを考える事なんて恐ろしくて出来なかった。私は認知が歪んでいて呪ってばかりで面倒臭い不健全な人間だとしか思えなかったし、そう思う自分を冷静だと思っていた。

だけど、別にそう決めてしまう必要も無いし、変わったっていいし、変わらなくてもいい。だけど私のような人は必ずどこかに居て、年下にもそんな生きづらい人はきっと沢山出てくるなと思った。なので

「取り敢えず生き延びる色んな方法を知っている生き字引」的な人になろうと思った。

安全に大人になれるにこしたことは無いけれど、現実そんな人ばかりではない。

そして今は学校を辞めて、受験生(一応)だ。将来の夢とか希望とかはまだまだ砂糖菓子のようだけど、取り敢えず何も考えずに歩いてみる事にしようと思う。

私は勇敢で、ここまで人よりも沢山戦って来たし、賢かったから助けてくれる真っ当な人と運良く繋がることも出来た。

だから大丈夫な訳では全然無いけれど、だいじょばないなりに、人生ガチャ外れなりに、取り敢えず死なずにやってみようと思う。